補陀山観音寺は文永4年(1267)の創建とされ、当時は南海山法船寺と称していました。嘉吉2年(1442)5月に瓦葺き本堂を領主小川正辰が再興し、浦陀山観音寺と称しました。(観音寺棟札に記載)
更に文明4年(1472)横河公孝公が京都建仁寺より龍洲和尚を迎え、再建されました。文禄2年(1593)10月に横河次太夫重陳公が京都妙心寺より天巌清長禅師を請いて開山とし、現在の補陀山観音寺と名を改めました。その後幾度も再建、修復を繰り返し、平成5年(1993)に第19代目住職、瑞岩守正禅師によって鉄筋3階建の本堂が再建された。現在は第20代目神足豊光が住職を務めている。
創建当時より安座され、二度に渡る二見村の大火災の際も焼失しなかったことより火防観世音菩薩と呼ばれ、信仰されている。全長約1メートルの木造で右手に蓮華を持ち、優しい面立ちが特長である。ただし、ご本尊は秘仏となっており、33年に一度のみ御開帳となっている。
次回御開帳は2026年となっています。
観音寺開基とされる横河次太夫重陳公は天正11年(1583)9月3日生まれ。父は重定といい、三木合戦の折、羽柴秀吉軍の侵攻より二見村の住人の命を守ったとされる人物。次太夫重陳公は慶長6年(1601)16才の時、姫路城主池田輝政公家臣中村主殿助正勝に仕え、船大将として水夫百余名を従えた。慶長19年(1614)大坂冬の陣では伯楽渕の砦において守将平子主膳正貞詮を討ち取り一番槍の功績により、徳川家康公より感状を賜った。(複製観音寺所有)
その後寛永元年(1624)大坂城再建に際し、備前犬嶋より縦4間(8m)、横8間(16m)の巨石を運びだし桜門に据えた。現在も既存し、大阪城最大の石垣となっている。数々の功績を残すが、慶安2年(1649)1月19日鳥取で没する。遺言により遺骸は観音寺に送られ葬られた。次太夫重陳公の功績は第3代目住職雲南清良禅師により墓碑に刻まれ、その墓碑は明石市指定文化財に指定されている。
観音寺は播磨西国第27番札所に指定されている。播磨西国観音霊場を定められた常光寺南室禅師より賜りし、御詠歌の木版が残っている。
【観音寺御詠歌】
補陀山や 海辺にみゆる観音寺
わたすお船も 法の道かな